ミュージアムをハックする 2
前回、「ミュージアムをハックする」という記事を書いた。それから見つけたこと、感じたことなどを覚え書き的に雑多に書く。
まず、美術館とミュージアムということばについて。訳語について白井暁彦博士からコメントがあって調べたのだが、「博物館」という訳は Wikipedia によると市川清流により1861年につけられた。和製漢語と書いてあるが、中国語の Wikipedia には博物館の項目がある。詳しくは分からないが、中国語の「博物館」は英語の「ミュージアム」と一対一対応していて美術館は博物館の一種のようだ。そして、広辞苑によると日本語でも同様に美術館は博物館に含まれるらしい。
ところで、ドイツ語ではムゼウム(ミュージアム)に対してクンストハレが存在している。記事にあるように境界線はあいまいだが、ムゼウムは作品を所蔵しクンストハレはコレクションを持たず企画展をするためのスペースであることが多いようだ。日本では国立新美術館がクンストハレに分類される。確かに新美術館を訪れるたびに多くの展示がされており、入口のアトリウムから見ると陳列棚か倉庫のように見える。建築家の黒川紀章によると機能性を重視して設計されたようで、まさにそのような言及が以下の動画にあった。
前回も書いたルートヴィッヒ美術館を再訪した。スーパーに行く前に立ち寄ったので買い物袋を持っていたのだが、大きすぎるので預けるように言われた。何も入っていないし、面倒だったので二つ折りにして、それから下から巻いて小さくしたところ持ち込んでいいと言われた。
前回の記事を書いてから note で美術館に関する記事を検索して読んでいたのだが、一般的には美術館に行くことは特別なことであり、電車に乗って美術館に行くところからその人のストーリーが始まっているようだ。ドイツではそこまで美術鑑賞の体験自体にフォーカスがあてられているのかは分からないが、観光名所であるルートヴィッヒ美術館を訪れる人に買い物客は想定されておらず、観光客や芸術に熱心な人たちがメインだろう。とはいえ、上の黒川紀章のインタビュー動画でレストランを充実させること、人が集う場所を作ることで美術館に立ち寄ってもらうという意図についての発言があるが、何かの「ついで」に立ち寄れる美術館のあり方も必要なのではと思う。
ケルンからベルリンに行く途中、ハノーバーに立ち寄って州立博物館で Duckomenta (英語)という展示を見た。私はこれまで知らなかったのだがヨーロッパの美術館などで80年代から累計70回以上展示されているとのこと。ドクメンタとダックをかけた言葉遊びで、化石から近現代の絵画までが某キャラクターのパロディとして作り変えられている。そして、博物館での展示にもかかわらずパロディであることは伏せられている。
作品の真贋に対する批評やミュージアムをハックするという観点で、化石や絵画を数点見たときはとてもおもしろい試みだし、30年以上前からすでにこのようなアイディアが実現されていることを知られて勉強になった。しかし、ダ・ヴィンチやラファエロまではおもしろいと感じたが、フェルメール、それからモネやゴッホなど現代に近づくにつれて食傷気味というか、ある種の寒気を感じるようになった。一つに現存する作品数が大幅に増えているため必然的にパロディの点数も増えていることがある。しかしそれよりも、この展示にはそもそも批評的な要素はあまりなく(あるいはもともと批評的だったが商業的に成功するにつれて薄れてしまったのかもしれない)、短絡的なパロディのおもしろさにフォーカスしているようだった。例えばモネの作品では睡蓮にアヒルの影が映りこんでいるといったように、もはやパロディというよりも間違い探し的にもなっていた。
それからしばらく、「自分だったらどういう展示にするか」について考えていた。前回書いたように絵画からアルファベットを探したり、展示の意図とは別の楽しみ方をするのが自分の切り口だ。例えば、 Duckomenta 展を見た後に常設展を見ていて見つけたこのブローチはアヒルに似ていて何か使えるのではと思った。
また、去年ネモ・ビエンナーレで見た Maarten Vanden Eynde の携帯電話の化石の作品についても思いを巡らせていた。偶然にもベルリンに着いてまず訪ねた Futurium でまさにその作品を見ることができた。 Futurium は去年私がベルリンを離れた直後にオープンしたので今回初めて訪問したのだが、日本で言う科学未来館のような施設で科学技術だけでなくサステイナビリティや社会問題等にも分かりやすく触れている。
この化石の作品が評価されている理由は、思想を押し付けるのではなく考える余地を多く持たせながらも、私たちが未来に何を残すのかというスペキュレーションについて疑問を投げかけているからだろう。例えば今の文明が滅びて化石として採掘されれば、未来の博物館にはこのような化石が展示される。しかしもし文明が大きく滅びなければ、あるいは滅びる直前までは、 MoMA のコレクションのように年代ごとに電子機器がガラスケースの中に並んで保存されていく。
この作品と Duckomenta の化石には明らかに大きな違いが映るが、実際にはそれほど違いはないのかもしれない。どちらも「嘘の化石」であることには変わりないし、解釈はいわゆる「受け手」に委ねられている。それも含めてミュージアムは主観的、偏見に満ちた不思議な空間だと思う。
ベルリンのハンブルガー・バーンホフ現代美術館でカーテンに日がさしていたのがきれいだったので写真を撮った。作品にしてはきちんとした施工でないので展示物ではないと分かったが、ジェームズ・タレルの作品だと言われたら信じてしまいそうだ。写真を撮っていると、同じ部屋にいた人も「これは作品なのではないか」と戸惑っているようだった。
最後に、イギリスのテイトでレイオフへの抗議として従業員がトイレの便器の横に作品のキャプションのようなシールを貼っているという記事を見た。マルセル・デュシャンの「泉」のパロディで「Inverted Fountain (逆さの泉)」と名づけられており、政府の補助金を得たにもかかわらず解雇することを決めたことから「piss away (無駄にする)」と「piss (小便)」をかけているようだ。