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ミュージアムをハックする

ミュージアムをハックする

私は昔から「美術館巡り」ということばが嫌いだ。スタンプラリー的であり、一度美術館に行けば再訪する必要がないようなニュアンスがあるからかもしれない。もちろん私も海外を訪ねた際などに美術館を「巡る」ことはあるし、美術館を「巡る」ために遠出することもある。しかしそれと同時に同じ美術館に何度も足を運ぶことも好きだ。東京工業大学にいた頃は国立西洋美術館の常設展が無料だったので上野に行くと訪ねるようにしていたし、東京駅八重洲口のバス停から地元への高速バスに乗る前に当時のブリヂストン美術館で時間をつぶすようにしていた。モントリオール時代は20ドル程度だったので現代美術館の年間パスを買って何度も同じ展示を見に行ったり、現在は芸術大学に通っているおかげでケルン駅すぐのルートヴィッヒ美術館が無料で入れるので時々暇つぶしに行くようにしている。

美術館に興味を持ったのは2008年、東京工業大学での学部生時代に人文科目で高岸教授の「アートとミュージアム」という講義を受けたのがきっかけだった。前半はダヴィンチやモネ、ピカソといった有名なアーティストのエピソードが紹介され、学期の後半は安藤忠雄や伊藤豊雄といった日本の建築家の紹介があった。講義に触発されてよく美術館に行くようになり、実際にパリやフィレンツェに「本物」を見に行ったし、二年前に直島を訪れたのも10年前にその講義を受けてからずっと地中美術館に行きたいと思っていたからだ。

美術館に行くようになったといっても、どれだけ一つの作品に時間をかければいいか、どういったルートで回ればいいかなど優等生的な展示の見方が常に邪魔をしていた。それが変わったきっかけは2016年、ウィーンのインプルスタンツというダンス・フェスティバルでのマリア・ハッサビ(振付家・ダンサー)とヤン・モット(ギャラリスト)のワークショップだった。ワークショップの中でベルヴェデーレ宮殿やウィーン美術史博物館に行き、一般の訪問者の後をつけて様子を観察したり、目的を告げられないまま5つの作品をピックアップし嫌いな順に並べさせられ、その後それぞれの作品を順に2, 4, 8, 16, 32分間観賞するように言われるなど「普通ではない」ことをした。しかしこれらは真新しい考えではなく、1964年にはジャン=リュック・ゴダールの映画 Bande à part でルーブル美術館を9分43秒で走破しており、その後もコンテンポラリー・ダンスを中心にミュージアムの新しい捉え方が提案されている(そしてそのようなムーブメントがこのワークショップの背景にあった)。

クリストとアルマンのキャプション

先のように、最近は作品を鑑賞するよりも他の鑑賞者や警備員、作品以外のものなどに注意が行ったり、「ミュージアムをハックする」方法を考えていることが多い。例えば上の画像は前回ルートヴィッヒに来た際に見つけたもので、クリストとアルマンそれぞれのキャプションなのだが、下のアルマンのものは2005年の没時あるいはその後に貼り替えられたもので少し色あせているが、クリストは今年亡くなってからアップデートされたばかりでまだ新品同様である。この考察にどのような意味があるのかと言われると説明は難しいが、美術館は作品が勝手に集まってきて展示になっているのではなく、学芸員ら人間が働いていてメンテナンスされながら運営されていることを考えさせられる。そして、作品だけでなく配置やキャプションといったすべての要素の組み合わせが展示を「それらしく」していて、何が許容されて何が許容されないのかは曖昧であることが多いのではないか。例えば生活空間である自宅にマスターピースを置いても展示はならない。と、一般には思われるかもしれないが、それはなぜだろうかと立ち返ることが重要だ。家が散らかっているから展示にならないのか、では美術館で電源ケーブルが見えていたり(皮肉ではなく疑問として)片方のキャプションだけ劣化しているのは問題ないのだろうか。

今日も暇つぶしにルートヴィッヒ美術館に行った。どうしたら観賞にゲーム性を持たせられるかと考えていてふと、アルファベットを美術館で探してみるという課題を思いついた。作品の中でも美術館にある作品以外のものでもいいし、形がアルファベットに似ているものでもフォントそのものでもよいと思っていたが、進めるうちにいくつかルールを決めた。今回は B のみフォントを撮影したが、それ以外は絵画や彫刻のパターンがアルファベットに似ているものを選んだ。また、同じ作品から別の文字を見つけても二度撮影しないこと、90度以上回転させないことや、今回は(ほとんどの場合) A から順番に撮影した。その結果がカバーの写真である。くだらない課題かもしれないが、自分がどのような経路をたどっていて作品のどの部分を見ているか、そして警備員らが自分をどのように観察しているのかなど学ぶことは多かった。そして最初の5つほどは手探りで、その後は T 辺りまで順調に進んだが、簡単な形である U を探すのに時間がかかった。

具体的な考察をするだけでなく、鑑賞者に必要なのは作品を身近に感じることなのではないかとも思う。もともと美術館の作品は美術館で生まれたものではなく、作者が自身のアトリエなどである程度の時間をかけて制作したものであり、作品を身近に感じているはずだ。しかし鑑賞者はそれを触ることはおろか、ガラス越しに見なければならない場合もある。観賞にゲーム性を持たせることで、展示室を行き来しながら作品を何度も観察していくうちに作者の名前さえ憶えていないのに「またこの作品か」と思うようになったのだが、それは作品を知る「純粋な」目的で観賞しては生まれてこない感情なのではないか。

余談だが、英語では「ミュージアム」として美術館と博物館がひとくくりにされるが、日本語の「美術館」に博物館は含まれない。フランス語やドイツ語で「ミュージアム」にあたる「ミュゼ」や「ムゼウム」も英語と同様だ。そのため「アート」「サイエンス」「ヒストリー」等の単語と組み合わせて美術館、科学博物館、歴史博物館などを明示するのだが、 “Jewish Museum” (ジューイッシュ・ミュージアム)のようにその機能が名前に反映されていない場合もある(日本語では「ユダヤ博物館」と訳される)。去年ベルリンのユダヤ博物館でアート作品の展示の手伝いをしていたが、新規に作られた美術作品であるにもかかわらず日本語で「ユダヤ博物館で行われた展示」と書くとイメージが大きく異なってしまうような気がしていつももやもやしていた。

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