Naoto
Naoto Naoto Hieda

色を見る

色を見る

30歳になる前後から物事の見え方が大きく変わった。誕生日の10日前にタブレットを落として画面を割ってしまった。誕生日の一か月後には電車に着替えの入ったバッグを置き忘れてしまった。今までこういった不注意はあまりなかったのだが、節目の前後に続いてしまったせいで30歳になったことの意味を考えるようになった(実際にはこれらが続いたせいで記憶に残っているだけで、去年ロンドンで電車に乗り遅れてチケットを取り直したり、元来そこまでしっかりとした人間ではない)。

私は自閉スペクトラムで、ことばや数字、視覚、触覚などが頭の中で混ざってしまうことがある。共感覚が近いのかもしれないが、例えば文字を見て音が聞こえるということはない。ただ、数字をぼんやりと色として覚えていて、例えば2は青っぽい色で3は緑に近いのだがそれもはっきりと関連付けているわけではなくて、むしろそれを文字に書き起こすと文字が邪魔して混乱してしまうので最近は意識的に考えないようにしている。逆に小さいころに色を付けないで覚えたこと、例えば「西」と「東」は今でもどちらがどちらか分からなくなることがある(ちなみに、その度に西日本と東日本を思い出すようにしている。大阪や東京など都市の名前を思い出すのだが、それらの都市も色と結びついていると思う。東京が赤いイメージなのは東京タワーのせいだろうか。それとは別に英語のウエストとイーストもわからなくなるので、その都度ウエスト・コーストとイースト・コーストのラッパーを思い出さないといけない。例えばトゥーパックとピギーだが、恐らくアルバムのアートワークを連想して前者は赤っぽく、後者は青っぽいイメージだ。しかし実際には青色のカバーはなく、むしろジェイZの「ブループリント」のイメージから来ているのだと思うが、実際には「ブループリント」のアートワークも青いわけではない)。

自分の年齢が20代から30代になったことで自分のプロフィールの色が変わってしまった(年齢を公にしているわけではないのでプロフィールというのも変な話だが)。私は意図的にときどき年齢を思い出すようにしている。というのもそもそも年齢は生年月日があればそこから求められるので、小さい頃はあまり意味を感じていなかった。しかし生きていると書類等に年齢を書くことがしばしばあり、その度に一度立ち止まって計算することは許容されない(と私の眼には映っている)ので訓練として自分の年齢を思い出すのだが、自分の今の年齢が非現実的なものに感じることがある。そしてその都度、本当に今日は2020年なのか、私は1990年生まれなのか、と不必要な不安に襲われる(言うまでもなく、和暦も思い出すのに時間がかかる)。

頭の中でぼんやりと情報が混ざるのは便利でもあり不便でもある。何か嫌なことがあったときに、嫌な色であることは分かるがそれをどう表現したらいいか分からない。なぜ嫌なのかもわからない。しかし、自分の頭の中ではこれ以上なくビビッドな色としてその事象が映っている(そしてそれは、単なる感情の色というわけではなく、自分の経験や周りの環境などを反映、包括した色である)。これほどはっきりとした色なのに、自閉的でない世界ではことばとして発信しなければ何も伝わらない。だから一般に自閉スペクトラムの人は自分を表現するのが苦手だと思われるのだろうし、そのために小さい頃から苦労することは多かった。また、何が好きで何が嫌いかと判断するのも苦手だ。例えばある食べ物が(比較的)苦手だったとして、それを食べた経験は時に好きな食べ物よりも強く印象に残るため、「何かを考えさせられる食べ物」という意味では好きだということもできる。何を考えているのか分からないと思われることもあれば、さっき言ったことと全く逆のことを言っている、嘘つきだと思われることもあった。しかし自分はあべこべにふるまっているのではなく、ただ正直に生きているだけなのだ。

それを克服するために私が行ったことはただ事実を並べることだった。そこには、今日はさわやかな一日だったとか朝からむしゃくしゃしていたといったような私自身の感情は付与しない。例えば今日は、15分かけて日系スーパーまで歩いていって昼食の弁当を選んで、おやつも買おうかと思っていたがレジに何人かのグループが並ぼうとしていたので焦ってその前に並んで(そのうちの一人の女性は豆腐を一パックだけ手にとっていた)、帰り道で蓋の隙間から水が三、四滴垂れるのを見ながら歩いて戻った、というただの記録だ。しかしその中から感情を鮮明にたどることができる。そして運が良ければ、他の人にもその数パーセントでも何かが伝わるかもしれない。

最近になって、ぼんやりとした色を感じることを逆手にとって思考のショートカットをするようになった。プロジェクトに何か問題があるが誰も気づいていない時、私はその何かを色としてとらえる。すぐに言語化することはできないが、何か間違っていないかと周りに呼び掛けて精査する。もちろん信頼されているからこういったことができるのだろうが、ことばを介さずに何がうまくいきそうで何がそうでないか分かることは大きな武器になった。あるいは一般にはそれを直感と呼ぶのかもしれない。

ここまで「色」ということばを用いたが、実際には色ともテクスチャ(模様)ともつかない中間的なものである。そして、私は視覚的な色を見るのが苦手である。色彩を捉えることができず、ことばや事象などを連想してしまうせいかもしれない。

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